学生時代からの夢だった教育業に就くため、新卒でフィジーの語学学校に入社した「永崎 優(ながさき ゆう)」さん。現在はフィジー在住12年、2児の母ともなり、日々笑顔を絶やさない優さんに、フィジーで就職するに至った経緯や、その他のユニークな海外経験についてお話を伺いました。
目次
プロフィール
永崎 優 (ながさき ゆう)
1983年兵庫県生まれ。大学卒業後、フィジー共和国にある語学学校と公立高校にて勤務。2012年、地球一周ピースボートの通訳ボランティアとして乗船。
2017年、フィジー初の国産果物を使用した、砂糖不使用/無添加のドライフルーツ製造会社「MALEKA GARDEN」を起業。フィジーのお母さん達が子どもを連れて働くことのできる環境を作り、身体に優しいドライフルーツを作っている。2児の母。
>>MALEKA GARDEN
英語教師を志しオーストラリア、イギリスへ留学
— 現在フィジー在住12年とのことですが、優さんにとって初めての海外経験はいつだったのですか?
優:
大学3年生、20歳の時です。大学の交換留学で、提携先のシドニーにある大学で1年間英語を学びました。
当時は英語教師になることを目指していたので、その夢を叶えるために、今までの人生で最も勉強した時間でした。実は、英語のスピーキング力は、ほぼゼロの状態で行ったので、最初の3ヶ月くらいは思うように会話が通じず、毎日苦戦していました。でも、海外に出ることは幼い頃からの夢だったので、オーストラリアでは水を得た魚のように、がむしゃらに英語を学び、現地の友達もたくさん作り、実りある1年を送ることができたと思っています。
留学である程度の英語力を培えたことで、大学4年時には2年休学し、イギリスのリバプールにある幼稚園から高校までの一貫校で、現地の子ども達に日本語を教えるプログラムに参加しました。
— オーストラリアで1年生活した後、2年休学してイギリスですか!すごい行動力ですね。日本語教育の現場はいかがでしたか?
優:
日本の文化や言語を教えることは、想像以上に難易度が高く、日々教授法を学びながら教える、を繰り返していました。
— 人に教えることこそ、自分の学びが一番大きいとも言いますよね。
優:
それは本当にあると思います。
また当時は、学校が長期休暇に入るたびに、ヨーロッパ各地やアフリカをバックパックで周って旅をしていました。自分が見ている世界をぐんと広げることのできた、貴重な2年間でした。
心が荒んでいた幼少期を救ってくれた恩師の存在
— ところで、優さんがもともと英語教師を志したきっかけは何かあったのでしょうか。
優:
幼少期の複雑な家庭環境もあり、心が荒んでいた時期に出会った中学校の恩師の影響が大きいです。
私の両親は、私が5歳、弟が0歳だった頃に離婚し、母はシングルマザーとして、幼い私と弟を育てるために必死に働いてくれていました。
今でこそ離婚なんてよくある話ですが、私の幼少期、周りの友達には全員お父さんがいて、友達が自分のお父さんの話をすると、その場から逃げたくなり、悲しくなったことは何度もありましたね。
小学生の頃はよく悶々としていて、母は仕事、弟は遅くまで保育園だったので、自分はいわゆる“かぎっ子”として、よく一人で家で過ごしていました。
その後、小学5年生の時に母が再婚したのですが、新しくできた父には連れ子が3人いて、また両親の間に赤ちゃんが産まれ、11歳離れた弟ができました。新しいメンバーが家族として一緒に暮らすことになり、また私の姓も変わって転校もしたので、自分にとっては大きな生活の変化でした。
— かぎっ子から、いきなり大家族に……。
優:
そうなんです。その頃は多感な時期だったこともあり、新しくできた父と折り合いが合わず、もう何に対しても反発心剥き出しでした。中学入学後も、まだまだ未熟だった私は、先生や先輩にも反抗したり、その生意気な態度が目立ったのか、先輩からもよく呼び出されたりしていました。本当に恥ずかしいですが、周りを傷つけるような言動も平気でしていたし、自分も周りも大切にすることが全くできていなかったと思います。
— それは辛かったですね。
優:
ですが当時、所属していたバスケットボール部の顧問の先生は、こんな私に対して、本当に真摯に向き合ってくれたんです。私の中にあった生半可な部分を徹底的に改善すべく、何度も叱ってくれました。
はじめは先生に対しても反発心しかなかったのですが、辛抱強く向き合い続けてくださった先生に対し少しずつ感謝の気持ちが生まれ、いつからか、「私も将来、心に何かを抱える生徒と向き合う仕事がしたい」と思うようになりました。
どうしようもない人間だった自分が、初めて“教師になる”という将来の夢を見つけました。この夢を持ち始めてからは、自分でも驚くほど行動に変化が生まれ、苦手だった勉強にも必死に励み、なんとか高校、大学へと進学することができました。
— 素晴らしい先生と出会ったことで、人生の転換期となったのですね。
「新卒はいらない」と言われるも諦めきれず
— そんな恩師との出会いもあり学生時代は英語教師を目指していたとのことですが、大学卒業後は、日本で教師の道に進むことはしなかったのですよね。
優:
はい、オーストラリアとイギリスでの経験から、「もっと海外の多くの場所を見て、より世界について伝えることのできる教師になりたい」という気持ちが強くなりました。なので、イギリスから帰国後は教員採用試験を受けず、海外の学校現場で働けるような仕事を探していました。
— 「日本で英語教師」ではなく、「海外就職」を考えていたと。
優:
そんなある時、SNSで“フィジー留学の現地スタッフ募集”という情報を見つけたんです。
「留学」は、私にとって人生を想像以上に大きく切り開いてくれた経験でもあったので、とても興味を持ち、「今度は自分が留学生を支援する立場で働いてみたい」と意を決して応募することにしました。ところが、その企業に問い合わせたところ、採用担当の方に「語学学校は開校してまだ間もないため、新卒は必要ありません。即戦力が要るので社会人経験者が欲しい」と、きっぱり断られてしまったんです(笑)。
— それはキツイ。
優:
はい。でも私は、“新卒”という理由だけで断られたことがとても悔しくて。一度、ダメ元で履歴書を出してみることにしました。ただ、普通の履歴書を送っても、既に断られているし見てもらえないと思ったので、一風変わった履歴書が必要だなと。
— どのような履歴書を作ったんですか?
優:
今思い返しても、あれは若かったからできたことだなぁと恥ずかしくなるのですが(笑)、顔写真欄にはフォーマルな写真ではなく、自分らしさが映る写真を貼ろうと思い立ちました。イギリス在住の頃、よく近所の木に登って読書をしていたのですが、ある時、たまたま友人が撮ってくれた写真があって。今考えたら不思議なのですが、当時はなぜかその写真に、自分らしさが表れていると思ったみたいです(笑)。
職務経歴書には、自分が大学生活をどのように過ごしてきたかについて、具体的にまとめてみました。当時、親からの経済的援助は受けていなかったので、学費、一人暮らしの生活費、留学費を稼ぐために掛け持ちしていた4つのアルバイトの詳細と、そこで得たスキルについて。また、海外では英語習得の他に力を入れた、環境活動と音楽活動について詳しく記載しました。新卒だけど、大学生としてこんなことをやってきた、ということを自分なりにアピールしたかったんだと思います。
— たしかにそれはかなりユニークです。
優:
意気込みを買っていただけたのか、その後ありがたいことに面接に進むことになりました。一次集団面接では案の定、大学生は私だけ。他は全員立派な社会人です。その方達のスムーズな受け答えに圧倒され、面接開始直後には自信を失いかけましたが、当時の現地マネージャーだった採用担当の方がすごくリラックスできる雰囲気を作ってくださり、率直な気持ちをまっすぐに伝えることができました。
面接終了後、応募者全員の目の前で合否の発表があったのですが、私はまさかの一次面接通過。その翌日には社長との最終面接があり、その後無事に内定を頂くことができました。
最初に応募した際、新卒であるという理由で断られたけれど、あの時に諦めずにチャレンジしてよかったと心の底から思っています。
フィジーで海外就職を叶え、夢だった教育事業に携わる
— 入社後、語学学校ではどのような仕事をしていたのですか?
優:
入社後の4年間は、語学学校の学生コーディネーターや海外営業、学校運営などのお仕事をさせていただきました。
その後の3年間は、高校留学に携わることになります。フィジーの公立高校に日本の高校生たちを留学生として受け入れるプロジェクトに加わり、彼らと向き合う日々を過ごしました。この時期は私にとって特に大切な時間になりました。
優:
私がもともと教員を目指していたのも、英語を教えること以上に、10代の多感な時期、様々な想いを抱える学生と向き合いたいという気持ちが強くありました。なので、昔から熱望していた仕事にフィジーで就くことができたことが、とてもありがたく、心からやりがいを持って取り組めた仕事でしたね。
— ご自身が中学時代に見つけた夢を叶えたのですね。
優:
はい。今でも多くの卒業生達と繋がっているのですが、彼らのその後の生き方を見届けたり、再会できたりすることが、私にとって大きな喜びとなっています。
10年越しで叶えた「もう一つの夢」
優:
実は、私には19歳の時からの夢がもう一つありました。それは、「ピースボート」乗船です。
— 世界一周クルーズの?
優:
はい。大学1年生の時に、たまたまあるお店でポスターを見たのがきっかけで、当時海外に出たことのなかった私は、一瞬でこのポスターに惹かれ、乗ってみたい!と思うようになりました。
ですが、通常の乗船料は、当時の自分にとって払える額ではありません。どうにか乗れないかと調べてみたところ、ピースボートには「通訳ボランティア制度」があることを知りました。
応募条件の一つは、TOEIC900点以上が目安だったので、それだったら留学をして確かな英語力をつけて、「いつか通訳として乗船したい」という目標を持つようになりました。
そして、10年越しの29歳の時、フィジーでのお仕事を休職し、通訳ボランティアとして乗船の夢を叶えることができました。
— 素晴らしい!
優:
ピースボートは、1,000人くらいの方達と一緒に旅をするため、バックパッカーの一人旅とは違って、毎日色んな出会いに溢れ、様々な人生に触れることができました。言うまでもなく、学びと感動の連続でしたね。
— 通訳ボランティアのお仕事はいかがでしたか?
優:
その当時、私は海外在住歴が7年ほどあったので、英語の面で仕事や生活上困ることはほとんどありませんでした。自分の英語力を客観的に見ることも自然となくなっていたのですが、同船した他の通訳ボランティア達の活躍ぶりに、正直驚愕しました。
通訳ボランティアは私も含め12名いたのですが、ネイティブの英語を話したり、英語だけでなくスペイン語も話せたり、通訳スキルもハイレベルなツワモノばかりでしたね。
— すごく刺激になりそうです。
優:
私は自分のレベルの低さに愕然としつつも、とにかく皆の足を引っ張らないように必死でした。それまで積み上げてきたと思っていた自信が、いい意味でぶち壊され、自分をまた一歩成長させてくれる経験となったのは間違いありません。周りの方のサポートのもと、より鮮やかな景色を見ることができた、かけがえのない時間となりました。
情熱を持ち続け、変化を楽しむ
優:
実はピースボート上に、60歳で琴を始めて80歳でプロになった女性がいたんです。すごいですよね、60歳から20年、みっちり下積みを積んでプロになるって。
— 普通はリタイヤする年齢にも関わらず、そこから新たな挑戦を始めるのはかなり勇気がいることですよね。
優:
私が尊敬する人生の先輩達は、夢に向かって走るには、いつ始めても遅くないんだっていうことを教えてくれているので、私もこれからも、ずっと挑戦心を持ち続けていきたいと思っています。
— 優さんのお話を聞いていると、決して恵まれた環境でなくても、自分自身で道を切り拓く強さと熱意をひしひしと感じます。幅広く様々なことにチャレンジされているそのパワーはどこから来るのでしょうか。
優:
自分が行動すればするほど、見る世界や出会う人の幅がどんどん広がっていくことが、たまらなく面白かったんだと思います。単純にそれだけを原動力に、一度きりの人生、できる限り挑戦し続けていきたい、と貪欲に思うようになったのかもしれません。
現在私は直接的に教育の仕事はしていないものの、将来はまた教育に関わることもやっていたいと思っています。これまで歩んできた道を振り返ると、やっぱり人生のあらゆるステージによって自分の心境が変化してきたので、これからもその変化を楽しみながら、私らしく生きていける選択をしていけたらと思います。
優さんのお話は、内容はもちろん、話す仕草や表情からもパワーが溢れ、自然と元気をもらえるような気持ちになりました。「どんな環境でも、自分を信じ、諦めず強い気持ちを持ち続けること」。それこそが目標を達成し、夢を叶えるために必要なものなのだと、改めて感じさせられます。
そんな優さんは現在、フィジーでドライフルーツの製造会社を立ち上げ経営しているとのこと。後編では、海外での起業や経営について詳しく話を聞いていきたいと思います。
インタビュー後編はこちら
母になり起業家へ。私がフィジーで会社を立ち上げた理由


