老後は南の島でゆっくりしたい……。そんな誰もが抱く夢を見事に叶えた日本人がいます。
南国フィジーで現地人の奥様とひとり娘と共にのんびり暮らす、堤 憲治郎さん69歳。今回は、フィジー在住日本人としても大変有名な堤さんを独占取材!その秘められた半生に迫ります。
50歳、公務員から海外リゾートの総支配人へ転身
— 本日はよろしくお願いします。まず、堤さんが初めてフィジーに来たのはいつですか?
堤:1999年、私が50歳のときでした。来年で丸20年になります。
— 20年ですか!フィジーに来る以前、日本では何をされていたのでしょうか。
堤:福岡県北九州地域の地方公務員をしていました。
— 公務員だったとは驚きです。フィジーにくるきっかけになったのは?
堤:49歳のとき、仕事の関係で知り合った日系アメリカ人に「フィジーでのリゾート事業を手伝ってくれないか」と言われたのがきっかけです。その人からフィジー東部にある小さな島をまるごとリゾートにしたリゾートアイランドの運営を任され、総支配人になりました。
1999年の3月に下見に来て、すぐ退職手続きをして、同年5月からフィジーです。最終的に計4つの島のリゾート運営をしていました。
— 公務員からリゾートの支配人ではかなりの差がありますが、ご本人としてはかなり勇気のいる決断ではなかったのでしょうか。
堤:私本人としては別にそこまででもなかったです。でも、家族や同僚はびっくりしていました。なんで一番給料高い時に辞めるんだって。
11年勤めたリゾートアイランド
— リゾートアイランドの運営について、当時のお話を詳しく教えていただけますか。
堤:まず、島まで公共の電気が来ていないので、ジェネレーターで電気を起こしたり、雨水をタンクに貯めて生活用水として使用したりと、基礎的なライフラインを自分たちで確保するところから始まりました。それ自体は来る前から覚悟していたので大丈夫でしたが、なにより食文化が大きく違うのは大変でした。フィジーでは日本の食材が簡単に手に入らないので、なるべく日本食のことは考えないようにしていましたね。
それから、フィジーの法律やフィジー人の習慣が日本と全然違うので、従業員を雇うにあたり、そのあたりも一から勉強しました。生活も含めて全て慣れるのに1年ぐらいかかったかと思います。
— 慣れない土地でイチからいろいろ覚えなければならない……想像しただけで骨の折れる仕事ですね。
堤:いろいろ落ち着いて、やっと慣れてきたころ、2000年にフィジーでクーデターが起こりました。その影響でお客様がぱたっと来なくなってしまったんです。
— なんと!それはすごいタイミングで……。
堤:私も一度日本へ帰って、次の年にフィジーに戻って来たんですが、政治状況はまだ落ち着かずでした。そんなとき、追い討ちをかけるように2001年のニューヨークの事件が起こります。私のホテルの85%はアメリカ人のお客様だったのですが、当時はアメリカ人全体が飛行機に乗るのが怖くなってしまって、どこにも行けない状態です。我々もリゾートも続けていてもしょうがない、もう閉めるしかないと、2002年に一度クローズしたんですよ。
2004年に再開し、そこから2010年まで営業していましたが、オーナーの意向で島の売却が決まったので、私の仕事も終わりました。計11年間やりましたかね。
老後生活をフィジーで過ごすことを決意
— リゾートの仕事が終わったあとは、どのような生活をされていたのでしょうか。
堤:残務整理など書類仕事が膨大にあり、約3ヶ月それを続け、その後2年ぐらいは観光ビザで半分フィジー、半分日本というような生活をしていました。そのときに、老後はフィジーで過ごそうと決心して、後半約1年間は婚活もしていました。
— 婚活ですか!当時60歳を過ぎていた頃だと思いますが、堤さんはそれまでは独身だったのですか?
堤:日本に奥さんと娘がおりました。でも実は、フィジーに来て5年後ぐらいに日本の奥さんに愛想をつかされまして。「あなたはいつもフィジーのことばかり考えているんだから、100%フィジーに心血を注いでください」と言われ、心ならずも独身になりました。
— それで、フィジーで婚活を。
堤:2011年ごろに、7人ぐらいの女性とお見合いをしました。でも、彼女にするならいいけど、結婚となるとなかなかこれという人がいなくて。一時、「ライフパートナー募集」の新聞広告を出そうと、広告文まで作ったんですよ(笑)。結局広告は出さず、今の奥さんと出会うことができました。
タベウニ島の高貴な家柄の娘と国際結婚

— 素敵な奥様と結ばれることになった堤さんですが、ぜひ奥様との馴れ初めを教えてください。
堤:彼女は、1999年に初めてフィジーに来た頃に知り合ったタベウニの大酋長の一族なんです。実は、10年ちょっと前、その一族のお葬式に私も参列させてもらったことがあって、そのときエレノア(奥様)とも会っていました。
— もともと顔見知りだったのですね!奥様は40歳年下だとか……
堤:私が婚活している時に、エレノアの叔母さんがそれを聞きつけて、じゃあエレノアはどうかと、彼女を紹介してもらうことになりました。私は10年前の彼女のイメージがあったので、叔母さんから紹介すると言われた時は、思わず「ええっ、エレノアってガキじゃん」って言ってしまいましたね(笑)。
— お見合いして、改めてお話されたときの印象は?
堤:彼女は3歳の時にお父さん、10歳の時にお母さんを亡くしているんです。そのあと叔母さんに面倒を見てもらって育ったんですが、そういう意味では苦労していて。素直で明るい子だし、彼女自身「結婚しないで修道院に入るつもり」と言うので、「修道院に入るのは勿体無いから、私と一緒に暮らしませんか?」と、結婚を前提にお付き合いすることになりました。
— そうだったんですね。その後、ご結婚されたのはいつだったのでしょうか。
堤:6月にお見合いして、7月4日に婚約式をしました。国際結婚するためには、婚約式も公証人のサインを入れた公式の証明書を作らなくてはいけませんでした。その後すぐにスバに婚姻届を出して、承認されたのが8月21日付で、翌日の22日に結婚式をあげました。
— すごいスピード婚ですね!
堤:スピード婚になったのは事情がありまして。日本の年金制度の「配偶者加給」という、奥さんがいたら年金が加算されて少し多くもらえる制度があるんですが、それを使えるのが63歳までなんです。彼女と知り合ったときには、私はちょうど63歳、次の年の3月で64歳になるので、残りの月数で正式に成立させなければならず、結果的にスピード婚になった感じです。フィジーでの婚姻も、国際結婚の手続きも、年金の手続きも、それはそれはやりとりが多くて大変でした。
— 国際結婚でも、配偶者加給は適応できるのですね!無事に間に合ってよかったです。そうすると、今は堤さんの年金だけで奥様も生活しているんですか?
堤:そうです。加給された分の年金はフィジードルに換算すると年6000ドルぐらい。それだけでもこっちの普通の人の年収ぐらいあるので、私の年金と合わせて十分に暮らせます。
フィジーでの子育てで大変なこと

— 2017年にはなんとお子さんも誕生されたとか!おめでとうございます!ますます幸せいっぱいですね。フィジーでの子育てはいかがですか。
堤:子どもは本当に可愛いです。でも、子育ては日本の感覚ではできないですね。というのも、粉ミルクもオムツも輸入品なので割高ですし、種類も選べないです。日本だと全て国産で手に入るし、いろいろな種類がありますから。いまフィジーに住んでいる日本人の中には、布おむつを頑張って維持している人もいます。
— 意外とそういうところにお金がかかるんですね。
堤:それと、離乳食が始まったときに、食材も工夫しないと簡単にはできません。赤ちゃん用のお菓子もまずないし、日本の感覚でなんでも手に入ると思ったらまずいですね。
— これは、子育て家庭が移住を考えるときに注意すべき点ですね。
堤:あと、個人的にはやはり体力の低下を感じます。足腰も弱りましたよ。日本にいるときは職場でテニス部を作ったり、「中年不良団」っていうグループを作って、ヨットやスキーなどもしていました。50歳までは都市対抗のテニス大会にも出ていましたから。
— すごく健康的。フィジーに来てからは運動はされていないんですか?
堤:島でリゾート運営をやってる頃は、スタッフが鉛筆より重いものを持たせてくれないので(笑)。やっぱりね、それが悪かったですよ。
— さすが支配人(笑)。堤さんは、今後もずっとフィジーで暮らす予定なのでしょうか。
堤:そうですね、子どももいますし。子どもの成長を見られるように頑張りたいですけど、それは神のみぞ知るですよ。もう来年70歳ですから。
— まだまだですよ。
堤:いえいえ。でも、フィジーのとある事業を手伝うというか、この先考えていることもあるので、まだまだ頑張らないといけませんね。
— 素晴らしい、生涯現役ですね。これからのご活躍にも期待しております!
インタビュー後編はこちら
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